子供の置き去り事件で、「しつけ」の仕方の問題が色々と論じられているように思います。
特に、叩く・殴るなどの体罰は絶対にNGという社会になりましたが、これに対して「時には必要」という意見もあるようです。
果たして正しい子供のしつけの仕方とはいったい何なのでしょうか。
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目次
子供のしつけの仕方は人それぞれ
子育て論というのは、いつの時代になってもはっきりとした正解はなかなかないと思います。
子供に優しいしつけの仕方だと「将来、人の痛みが分からない子供になる」と言われることもありますし、厳しいしつけの仕方をすれば「将来、暴力的か内向的な子供になる」と言われることもあります。
この、しつけの仕方に関することは、親にとっては本当に悩みの種。
ネットの掲示板や質問板でもよく話題に挙げられ、「○○するのはどう思いますか?」という質問に対する答えも賛否両論です。
明らかに間違っているしつけの仕方というのは当然あるにしろ、どちらともとれるしつけの仕方の幅というのはかなり広いのではないでしょうか。
叩く・殴るなどの体罰は絶対NG?
教育現場では、一般的には「叩く・殴るなどの体罰は良くない」と言われますよね。
これは、小学校や中学校などの学校だけでなく、家庭内でも同じことです。
ネット掲示板などで見る限り、多くは体罰を振るうとしたら父親、それを非難する母親という構図でできているように思います。
もちろん逆もあると思います。
例えば、子供のお行儀が悪いときに、父親がしつけとして子供を叩いたり殴ったりしたことについて、母親が相談して、それに対して賛否両論で議論が盛り上がっているんですね。
回答数もかなりの数になり、「皆、自分なりの教育論を持っているんだなぁ」っと思います。
ここで注目したいのは、「叩く・殴る」というしつけの仕方に対して、賛同する人もいる、という事実です。
それも少なからず。
体罰が絶対ダメな理由
体罰を否定する側の人は「いつ、いかなる理由であろうと体罰というのは許されない」という立場を持つ人が多いように思います。
ある意味では、個々の状況にとらわれることなく、条件反射的というかアレルギー的に「体罰ダメ、絶対。」という感じですね。
このタイプの人が「体罰がダメな理由」としてあげることの一つに、「法律違反だから」ということが挙げられます。
教師であれば学校教育法違反、それ以外の人であれば傷害罪に問われる可能性があります。
このような行為が許されるはずがない、というものですね。
もう一つの理由は、「人格否定に繋がるから」というものです。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、体罰は受けた側が「自分が憎まれている」と感じてしまう可能性があります。つまり、自分の人格が否定されている、と感じる可能性があるというわけですね。
人格否定を受けた子供は将来自分に自信を持てず、周囲に暴力を振るうようになったり、自分の意見を発することができない内向的な人間となる可能性があります。
しつけとしての置き去り
事件ともなり、強い非難を浴びた「子供のしつけとしての置き去り」があります。
確かに結果を見るとひどいことだとは思いますが、山中に置き去りとまでいかなくても、買い物で「もう帰るよ!」といっても「帰らない!」と駄々をこねる子供を置いて見えなくなるところまで歩いて行ってしまう、ということをした親というのは結構いると思います。
これも「置き去り」に分類されるものだと思いますが、体罰とは言わなくても虐待(ネグレクト)だと言われてしまいそうです。
でも、例えばパパやママから離れて走って行ってしまった子供を陰から見守って、子供自身が気づいて泣き出してから姿を見せる、というのはどうでしょうか。
これだと法律違反も人格否定もしていないですが、それでもかなり賛否両論に分かれるのではないでしょうか。
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体罰も時には必要という理由
一方で、体罰も時は必要だ、という意見が少なからず存在します。
こういった人たちの多くは「体罰肯定派」というよりは、体罰否定派の否定派というか、「何でもかんでも体罰はダメ、という教育だと、かえって子供によくない」という意見のようです。
事実、近年の研究結果の報告によると、しつけの範疇と思われる軽度の体罰すら受けなかった子供は、受けた子供よりも非行に走りやすい、といったものもあるようです。
正当な体罰もある、と主張する人の理由は以下のようなものです。
①自分も子供の頃に体罰を受けた
自分も体罰を受けたからやっても良い、ということではなく、「自分だって子供の頃に体罰を受けた」という言葉の裏には、「だけど、今では社会人として善悪の判断が付く立派な大人になっている」ということでしょう。
②痛い目にあわせる最も効率的なやり方だから
やや誤解を受ける表現ですが、昔から言いますよね。「痛い目にあわないとわからない」って。
叩く・殴るなどの体罰は、子供が本来してはいけないことをしたときに、「痛い目にあわせる」ための最も原始的で効率的なやり方だ、という教育論が昔から存在します。
その「痛い目」が体罰でない場合は、「お小遣い抜き」だったり「おやつ抜き」だったり「外出禁止」、あるいは「宿題」といった罰を与える親や教師もいます。
そもそも痛い目にあわせなくても、きちんと説明することで分かる、という考えの場合は、こんこんと道義的責任を説いていくことになりますが、結局のところは実際に痛い目にあわすのではなく、「こんなことをするとこういう痛い目にあうことになる」ということを言葉で説明しているだけで、本質的には脅しに分類されるものであるとも言えます。
まとめ
結局のところ、教育のためにはどうすればいいのか、ということについては答えは出せません。
私自身は、体罰自体の効果はある程度認めつつ、どちらかといえば体罰は否定派です。「体罰も時には必要」というよりは「体罰が有効な場合もある」といった感覚です。他の手段に置き換えることは当然出来ると思いますし、ほとんどケースでは置き換えるべきだと考えています。
なぜならば、体罰は受け手だけでなく振るう側の人間にも品性が問われると思っているからです。
体罰を与えることによって自分自身が絶対的な存在と勘違いし、いつしかそれがエスカレートします。かなりの高確率で。
「es」という映画でも描かれていますが、世界で最も恐ろしい実験の一つと言われている「スタンフォード監獄実験」というものがあります。
どうしても罰を与える側の人間もまた完璧ではない、ということがネックとなるんですよね。
時には必要だ、というのは一定程度認めつつも、これが社会的に容認されると大変な事態を引き起こす可能性がある、とも思っています。
なので、現代社会のように体罰は基本的にタブー視される世の中、というのは、体罰を振るう大人自身が完璧な人間じゃないから生まれたものだと思いますし、これからもまた完璧な大人ばかりになる社会などありえるはずもなく、この風潮は強まっていくのではないでしょうか。
以上「子供のしつけの仕方 叩く・殴るなど体罰は絶対NG?」でお送りしました。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
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